東京生まれ、大阪育ち。角野家は広島県呉市の出で、父親は元広島県会議員。戦前は過激な右翼青年で、県議時代は広島抗争の時期でもあり、実家を舞台に美能幸三の手打ち式が行われたこともあるという。卓造も幼稚園に上がる前の一年間呉市で育った。母親は東京千駄ヶ谷の医者の娘。父が二度目の県議選に落ち実家の海運業を潰し、両親とともに大阪に出て大阪市立愛日小学校に通う。東京に戻り、千代田区立麹町中学校卒業後、学習院高等科に進学。高校時代はみゆき族だった。1967年(昭和42年)に学習院高等科から学習院大学経済学部経済学科に進学し、1971年(昭和46年)に卒業。学習院高等科および学習院大学では演劇部に所属していた。演劇部の先輩に篠沢秀夫・児玉清・細川俊之、後輩には黛りんたろう・大森博史・宮田慶子・田中明生がいる。大学在学中に状況劇場の唐十郎と出会い、小劇場でのアングラ演劇に目覚める。一度は、自分で作ったばかりの学習院大学演劇部のアトリエを状況劇場に稽古場として貸したことさえあった。当時の学習院大学演劇部のアトリエは、学習院大学西2号館内のアメリカンフットボール部の着替え場所に割り込んで作った簡単なものであった。その後、ハイセイコーの馬主や真田幸村の子孫などの大森博史の世代が本格的なアトリエに改装した。そのアトリエを大森博史の伝でオンシアター自由劇場に稽古場として貸したこともある。現在は、そのアトリエも壊され、代わりに学習院大学が敷地内の富士見会館の4階に本格的で大規模な劇場施設(演劇部アトリエ)を築造した。今の学習院大学演劇部は学習院大学富士見会館4階の演劇部アトリエを使って活動している。1970年に文学座研究所に入所、1972年に”飢餓海峡”で初舞台。特に石井ふく子プロデュース作品には多く起用されており、TBSホームドラマの常連としての活躍が大きい(その中でも”渡る世間は鬼ばかり“の小島勇役は有名)。山本コウタローとは幼馴染であり、中学時代は山本と一緒にバンドを組んでいた。角野が「渡る世間は鬼ばかり」の撮影の合間にギターを弾いていたら、橋田寿賀子に「角野さんは楽器がひけるの。初めて知った」と尋ねられ、角野が「実は、山本と幼馴染で、中学の頃、一緒にバンドを組んでいた」という話をしたら、橋田が「今度は親父バンドの話でいく」と言った。この後、角野の伝で橋田が山本のコンサートを聴き、心打たれて橋田が脚本を担当している”渡る世間は鬼ばかり”に山本が出演することになった、というエピソードもある。また、澤雄二も麹町中学校の同級生であった。小田和正のファンで、2006年12月28日放送の”渡鬼”バラエティ特番では、泉ピン子と共にドラマの衣装を着て”クリスマスの約束“収録前のステージに上がり、前説をしたこともある。プラモデルが趣味で特に飛行機に造詣が深い。近藤春菜とは容姿が非常に似ており、それを逆手にとった「角野卓造じゃねぇ〜よ!」という近藤の持ちネタでの知名度も高い(”HERO”映画2作目、ドコモ「得ダネ」シリーズでは親子役で競演した)。なお、角野はこのネタに寛容である。2008年11月、紫綬褒章を受章。 同11月3日には、白鴎大学の大学祭(白鴎祭)で、山本とのトークーショーに参加した。
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